母亡くなる
2015-01-12


昨年の暮に兄から、母が危篤になったと連絡があった。遠方に住む私たちは、すぐに駆けつけることができない。たとえ行こうとしても年末年始の大混雑でとても飛行機のチケットをとることができない。新しい年をむかえられるのかどうか、やきもきしながら正月を迎えることとなった。

元旦の朝、兄嫁から送られてきたメールでは母が持ち直したとあったので少しほっとしたのもつかの間、結局翌2日の夕方に亡くなったとの知らせが入った。89歳の生涯であった。葬儀は5、6日と決まった。

4日まで続いた帰省ラッシュをかろうじて避ける事ができ、花巻までチケットはすぐに取ることができた。午前9時に花巻着。小雪が舞う中、義兄が迎えに来てくれた。

実家に向かうと、すでに葬儀屋の手で祭壇がしつらえられ、母は棺の中におさめられていた。兄から母が亡くなる前後の様子を聞く。

数年前から末期がんをわずらい、高齢者施設に入っていたが、自治体の充実したバックアップのおかげで、最期は自宅で看取ることができた。近年、病院で亡くなる人の数が増えているなか、母にとっては幸いな晩年を過ごすことができ、またあまり苦しむこともなく家族に見守られなが理想的な最期を迎えることができたと思っている。

私と妻は何もできなかったが、兄夫婦と近くに住む姉夫婦が献身的に母を支えてくれた。火葬された母は小さな骨となった。それを見た姉は泣いていた。

実家がある地域では、最初の日に火葬をしてしまい、次の日に本葬を行う習慣である。小さな頃からお世話になった親戚たちも高齢になり、世代交代している。生きている間に会えるのはこれが最後かもと思う方々もいる。

息子夫婦も長野から駆けつけてくれた。こんな機会でもなければ、普段なかなか会うことができない。息子の嫁は田舎暮らしをしてみたいと思っているくらいで、気おくれもせず実に堂々と地域の人達の間に入って、せっせとお手伝いをしていた。妻も、嫁のかいがいしい働きぶりに感心していた。

葬儀は無事に終わった。傍から見ていたらそれなりに立派な葬儀であっただろう。しかし、見えないところに複雑な影を感じないわけにはいかなかった。憎しみや悲しみ、傷、妬み、いろいろな思いが、兄夫婦やその子どもたちの心のなかに重く沈殿している。どうすることもできない。私も例外ではない。「あなたも他の人たちを傷つけていた」と、兄嫁から知らされたときは愕然とした。

人間は生きれば生きるほど、背中にいろいろな重荷を背負っていくしかないのかもしれない。おそらく母もそうであったろう。母は、鉄道屋であった父に嫁いだ。しかしその父は、肺結核で体を壊したため職を辞し百姓となった。その挫折を受け入れられず、毎晩愚痴を言っては泥酔した。にもかかわらず、母は繰り言をひとつも言うことなく、父を支え謙遜に生きた人であった。これは兄と姉そして私の三人の一致した意見である。

世の中になにか大きな功績を残したわけではないし、少し距離をおいてみれば親としていろいろな欠点もあった。しかしそれでもやはりこのような母をもつことができたことを私は誇りに思う。
[Life]

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